ちばにう通信

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「始末」ということば

投稿日:2005年8月6日 更新日:

ごくあたりまえのこととして、播かぬ種は生えないし、播いた種は刈り取らなくてはならない。その上ありがたいことに、ここでは播かずとも生えてくれるものたちもあって、この時期、畑のたくさんの生命は、訪れる者をじっといさせてはくれない。

梅雨の頃から夏にかけて、驚異的な生命力で伸びてゆく草たち。さすがに野菜たちとの共存の為にはどうしても刈らざるを得ないので、他の作業とともに、滝のような汗を流しつつ草刈りの日々が続いている。一巡した頃にまた、始めた場所あたりの草が伸びている!という訳で永遠に続きそうに思えて来るが、ある程度作物が育つ頃にはその勢いも治まってくれるし、刈り取った草がまた大活躍してくれたりと、草刈りもきついだけではない。それどころかむしろ、草たちからエネルギーをもらっているような気がしている。というのも、殆どを手作業でしているので、いつのまにか雑草たちとも語り合っているのだと思う。

手を伸ばせばどんな機械でも手に入る時代ではあるけれど、草刈りをはじめ、様々な作業を出来る限り手作業で行っている。手仕事のペースだと、いろいろなことが見えて来る。珍しい昆虫に出会ったり、こぼれ種から芽を出し元気に育つミニトマトやスイカなどの苗に感激することもしばしばであるし、ミミズや草や野菜たちと語り合っては生命の交流が出来る。また機械と違い、何と言っても体力には限界があるので、何かをやり過ぎるということを避けられるし、自ずと我が身の限界を知ることにもなる。

そんなこんなで続けている手仕事、やはりその原点は、かつての日本で普通に営まれていた「始末のいい暮らし」というような、自然と調和したあり方の出来る「全うさ」への憧れではないかと思っている。

とても残念なことだが、現在私たちが日頃何気なく使っている品々の断片が土に紛れていることがある。拾ってはいるが、もちろんそれで解決するわけではないし、もし機械だったらと思うと、想像に難くない。ほとんどの有機物は分解してしまうという自然界の“循環”をもってしてもどうにもならないものなのだ。さりとて、石油文明の落とし子は、便利な品々として生活のあらゆる場面で使われている現在だから、全く拘わりを持たないということは難しいことだが、そんなこともあって、以前よりは、使用に対する意識は変わって来ている。

土に還らないものがあるという事実に直面することは、やがて、自分がどんな暮らしを、生き方をしたら、後に「つけ」を残すことがなくなるのかを考えさせてくれる。

そんな時である、殆ど自然に還すことが出来るものに囲まれて、始末の行き届いた暮らしを細やかに営むことが出来た昔が、ちょっぴり羨ましくなるのは。

「始末」ということばには、とても奥深いものがあるような気がして来ては、ますます惹かれてゆく。

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