ちばにう通信

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みんな人間だもの

投稿日:2017年9月16日 更新日:

人間本来の姿が「善」か「悪」か、ないしそのどちらでもないのかについては、孟子や荀子、あるいは告子辺りの時代から近現代に至るまで、飽くことなく論議がなされ続けているようです。それらの思想のどれにも共通していえることは、人の性は後天的に獲得されるという考え方でしょうか。介護の現場でご利用者様と対峙する時、そういった次元から考えずにはいられなくなることがあります。

私たち介護職は、支援を必要とされる方の生活歴を知り、自立のお手伝いをし、尊厳を守り、その人らしい生活を継続できるようにすることを目指すのが大義です。ただし、その文言の発するところが、人の「善」の部分(のみ)を前提に語られているように感じてしまうこともあります。

例えば、以前施設でお世話させていただいた方ですが、要介護状態になる以前から家庭の内外で自分の思い通りに事が運ばないとすぐに手が付けられなくなるほど癇癪を起こし、気に食わない人には陰湿に、かつ徹底的にいじめを行い、相手の人格もろとも否定しにかかるような言葉を平気で投げかけ、家族や親戚はおろか、近所に住んでいた方まで関係を持つことが困難だったという方がいらっしゃいました。その方が認知症を患われて施設にご入所されたのですが、そこでも私たちスタッフに対してもその生活歴を発揮するように、気に食わないことがあれば殴る蹴る噛みつくなんかは日常茶飯事、お食事を勧めると「こんなゴミみたいなご飯食べられません」と床に放り投げ、口腔ケアでは口に水を含まれて介護士に向かって吹きかけるなんていうこともよくありました。

このような方に対してどのように接すれば良いかと現場では介助をしながら毎日のように試行錯誤したり、皆で事例の検討を行ったり、外部の「認知症の対応」の研修に参加するなどして対策を立て、それを試みます。ですが、もちろん相手も生身の人間ですので、一つの正しい方法論を組みあげ、それを具体に演繹すれば万事上手く事が運ぶという訳には到底いきません。

介護職としての職務を全うしようとするのならば、そういった方々への支援をすることへの受容や覚悟が必要となってきますが、私たちは如来でもなければ菩薩にも到底なりえない実に不完全な生身の人間であり、暴言を吐かれれば辛いし、殴られたり噛み付かれればそりゃ痛い。それらに対して憤りを覚えることもあれば、落胆してしまうこと、やりきれなさを抱えることも多々あります。

仏教では「この世は仏道修行のための舞台であり、人はその中で縁によって決められた役を演じているだけ」(故に善も悪も無い)という考え方があるそうですが、世俗の人である私にはなかなかそこまで達観して物事を捉えることは難しそうです。ただ、先のような事例に出くわした時、ただ義務感から顔面受けをしているばかりではなく、それを解決するべき事項としてある程度客体化してしまうことによって、少し救われたような気持が生じるということは経験があります。ありていな表現をしてしまうと「心に余裕をもつ」ということでしょうか。真に受けすぎて疲れてしまうよりは良いのかなと思っています。

あくまでも、そういう一面も確かにあるというお話でした。

(月刊千葉ニュータウン2017年9月9日発行号所載)

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