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第四十一回 印西の竜神降雨説話

投稿日:2006年1月14日 更新日:

高い山も大きな川も持たない北総台地の人々の生活を古代から支えたのは、天水(雨水)であった。村々は台地の谷頭に溝や溜め池を掘って農耕に利用した。しかし、度々襲ってくる日照り続きの気候には抗する術がなく、ただ神や仏に祈るほかなかった。降雨を司る「龍」の字を持つ寺を建て(青龍山、龍角寺、龍腹寺、龍湖寺、龍淵寺など)、神楽や獅子舞を奉納して降雨や豊作を祈願した。これらは文化財や民俗芸能として今に伝えられている。

また信仰をはぐくむ過程で多くの伝説や説話が生まれ、伝えられている。その幾つかを紹介してみよう。

禅僧・卜童

これは赤松宗旦の「利根川圖志」に書かれた話である。

文政初めのころ(一八一八~)、印西の辺り(内容から印旛村吉高か萩原あたり)に卜童(ぼくどう)と呼ぶ禅僧が漂泊してきて住みついた。樹下祠堂を栖とし、着物にも頓着無く、食を与えるに二椀の他は食さず、と愚鈍・愚直の乞食坊主と紹介している。

ある年の夏、この辺りは大旱に見舞われ、利根川を始め川沼は渇水し、井戸の水も尽きてしまった。諸寺諸山の祈祷も、農民の雨乞の祈りも空しく、雨の降る験はなかった。

その時である。乞食坊主卜董が村人に告げた。「印旛沼の佐久知穴に住む龍神は私の友人である。彼に頼めば必ず雨を降らしてくれるだろう。佐久知穴の傍らに祭壇を作ってくれたなら、私はそこで一七日の間飲食を断って龍神に祈ります」

村の人々ははじめ卜童の話を一笑に付したが、卜童の必死の説得と、迫り来る飢渇への恐れから、ト童の話にのってみるかという気になり祭壇を誂えた。卜童は壇に登り大声で誓文をあげた。「もし七日の間に雨を降らせなかったら、佐久知穴へ身を投じて龍神の住処を穢します」

卜童の憂民を救おうとする必死の祈りが龍神に届いたのか、七日目の昼頃から黒雲舞起こり、篠を突く如くの雨が降りだし、農民の苦しみを救った。村人が差し出した単物一枚と麻の衣を身につけて、飄然と村を後にした。

(注、佐久知穴:印旛村吉高と萩原の沖合にあった湧水穴)

清戸の泉

白井市清戸の青龍山薬王寺に伝わる「青龍山薬王寺並びに堂作辨財天女縁起」に次のような話が書かれている。

平安時代の大同年間(九世紀初頭)に大旱魃があり、村人は飢饉に襲われていた。

その時通り掛かった諸国巡礼の僧侶が龍神に雨乞いをして雨を降らせ村人を救った。そのとき、雨とともに降ってきた龍神を祀るため辨財天堂を建て、周りに池を掘った。

いまも船橋カントリークラブ八番ホールのほとりにあるこの他は「清戸の泉」として県指定史跡に指定され、絶えることなく水が湧いている。

龍角・腹・尾寺

飢餓に苦しむ農民の生活を救うために小龍が、龍王の許しを得ないまま雨を降らして龍王の怒りに触れ、身を三つに引き裂かれ、頭部が落ちた龍閣寺が龍角寺、腹部が落ちた延命院が龍腹寺、尾が落ちた大寺が龍尾寺(八日市場市)とそれぞれ寺号を改めて、降雨祈願の寺として広く知られている。

しかし、三つの寺の縁起に共通しているのは前記の事だけで降雨祈願の時代、小龍の人間世界への現れ方などはそれぞれ異なっている。この三山の僧侶が、三つの寺の存在感を高めるために相談して作られた説話であろう。

この仏教説話はかなり早くから流布されていて、鎌倉時代には尾張国の僧無住によって記録されている。

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