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喪に出会うこと、携えること

投稿日:2017年8月16日 更新日:

佐伯 咲

 「事業所のパンフレットを刷新したいね」と現場のスタッフの中で話が持ち上がっています。それに取り掛かるべく、掲載するための写真をパソコンのフォルダから探していると、ついついずっと昔の写真まで掘り起こしては、スタッフ同士で「懐かしい!」「すごく若いね」「いや、むしろ全然変わってないよ」などと会話を弾ませています。以前にやめられた方で、記憶の中ではほとんど笑わなかったなと思っていたような方が、喜色満面の笑顔で写真に写っているのを見つけ、その一瞬を切り取ることが出来たことを喜ぶと同時に、どこか救われたような気分にもなりました。そして中には、既に亡くなられた方も一緒に写っていたりして、思い出話に花を咲かせながら、不思議な感慨に耽っています。

私たちは、日常の生活や仕事に毎日慌ただしく追われている中で、目の前のことに精一杯になるあまり、普段自分たちが有限の存在であるということをしばしば忘れがちになってしまってはいないでしょうか。「それは確実にやってきはするが、しかし当分はまだやってきはしない」(ハイデガー『存在と時間Ⅱ』)という具合に。

私たち介護職は、主にご高齢の方の生活を支援するお仕事であり、まさしくその最期を迎える場面に出会うこともあります。私たちはそれに触れることによって、実に様々なことを学ばせていただきますが、その中でも生活の有限性や代価不可能性、ないしそれゆえの尊さなどは、とりわけ深く教え込まれます。

そもそも、私たちは具体的経験として自らの終(つい)を経験することはありません。もしそれが訪れたとしても、その時にはもう既に自分の経験・認識は無いからです。それについて仏の哲学者J・デリダはその著書『アポリア』の中で、「最期こそ我々は経験し得ない動詞である。我々は他者の終に触れ、その他者と自らを同定することによって他者の経験として自らの行く末を知るのである」(要約筆者)と説明をしています。

私たちは誰であれ、他者との関連性やその継続性の中で生活をしています。そして、それが時間の経過と共に何らかの形によって中断されることもまた世の常のように思います。私たちはそれに直面した時、その人との関係性の深さの分だけ存在の喪失、不在を携えることになります。

以前、施設に入所されていたご利用者様が亡くなられた際、ご家族様が「もしずっと家で母の面倒を見ていたら、きっと嫌いになっていました。お陰様で最期まで大好きな母を慕ったまま見送ることが出来ました」とお話し下さった言葉が、今でも鮮明に記憶に残っています。その方は、お仕事をされながらもほぼ毎日のように施設に足を運ばれ、お母様との談話の時間を設けていらっしゃいました。

その言葉を思い出すたびに、自分はそれに応えられるだけの介護が出来たのだろうかと自問してしまいます。そして、現在支援を行うべき方々との「今」に向き合っていこうと決意を新たにします。
季節柄もあるのでしょうか。何処か敬虔な心持ちです。

(月刊千葉ニュータウン2017年8月12日発行号所載)

 

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