ちばにう通信

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循環について

投稿日:2006年4月15日 更新日:

細い枝を四方に広げていただけの木々も、いつの間にか日陰を作り出していた。梅、桃、スモモ、辛夷、桜、八重桜と、次々に花開く樹木によって、春の調べはより鮮やかさと深みを増して行く。同時にそれらの樹木は、各地において種まき等の様々な農作業の目安となっていたことを思うと、かつての里の暮らしに大切な役割を果たしてもいたのだろう。

日ざしに誘われて、弥生の頃よりいそいそと動き始めている。ただ冬の間に少々衰えた筋力や体力の身に、畑の準備、草刈り、種まきと、次々に農作業の待ち受ける春はきつい時もあるけれど、それでもつい畑に出て動き始めると、知らず知らずのうちに体調もよくなっていたりするから驚く!その辺りにも自然の一部である人間としての神秘も隠れているようである。さらには、昨年植えたはずがうっかりその場所を忘れるという記憶の衰えも、“芽生えの季節”は補ってくれもしてありがたい。

そんなこんなで、多くの作物や樹木や草花が共生している自然農の畑では、それらが次々と姿を現し変化する時節は、大いに楽しみな頃でもある。

現在畑には、栗やブルーベリー、柿や枇杷等の果樹も、フキやミョウガ、様々なハーブ類も、たくさんの野菜や草花と共存している。畑とはいえ、なるべく本来の自然の姿に近い状態にと思う私は、多種多様な植物を混作している。いわゆる“効率的”という人間にとっての都合にかなう方向とは逆かも知れないが、果樹だけとか野菜だけ(それも単一の)というのは、どうも不自然な気がするのである。

最近はコンパニオンプランツ(共栄作物)ということでも知られるようになったが、私も詳しい訳ではないけれど、共生の大切さを見直すことになればと思う。

そんな多くの植物たちの前年に落とした葉や、役割を終えた野菜の残滓や、命を全うした草花は、そのまま畑に残されるかあるいは積み上げられて、そこに留まる。徐々に分解され、土となり養分となって行く。サツマイモの蔓やサトイモの葉も、もはや元の形はそこにない。

やがて命の始まりの時を迎え、こぼれ種からであろうと、種まきした苗であろうと、宿根の株からであろうと、そこで新しい命となって再びよみがえって行く。見事という他ない!そのたたずまいの中に身を置くと、「循環」が理屈抜きに感じられる。

だからであろうか、その「循環」の環を断ってしまうような、自然に(ということは未来に)負荷をかけてしまいそうなものや方法を、なるべく使いたくないし避けたいと思えてくるのである。

“便利”を追求した結果として、暮らしの中の様々な場面や要素のほとんどを、他にゆだねてしまうということになってしまった現代の生活。あらゆるものが「どこから来て、どう始末されどこへ行くのか?」よほど想像力が豊かであるか、自分の目でその実態を確認する機会でもない限り、暮らしの全体像は見えないしつかめない。

そんな状況で「循環型社会」を唱えられても、正直その糸口が見えない時も長かったが、今ようやく、「持続可能な社会につながる循環型社会の未来図」は、やはり日々の暮らしをたとえわずかでも自分の手に取り戻すことで、その先がまた少し見えて来るという道のりの中にあるのかも知れないという思いに至っている。

何はともあれ、その見事な「循環」のおかげで今年も、ふきのとう、つくし、よもぎ、菜の花等の季節の恵みを、味覚のみならずすべての感覚を総動員して充分味わうことが出来たのだから、感謝!

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