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第四十二回 武蔵型板碑(板石塔婆)(むさしがたいたび(ばんせきとうば))

投稿日:2006年2月11日 更新日:

今を去る三十五年程前、私は暇を見ては龍腹寺境内の森の中を鉄の棒を持って歩き回っていた。かって龍腹寺には五重塔があったと伝えられ、室町時代の嘉吉二年(一四四二)の建立を示す棟札が伝来し、「塔の下」の地名が残ることから、塔の礎石が何処かに埋もれているに違いないと捜していたのだ。

そしてある日、地蔵堂裏の墓地に続く森の一角でボーリング棒が鋭く反応した。あの時の感動は今も忘れられない。

しかし出てきたものは塔の礎石などではなく、大量の武蔵型板碑と呼ばれる板石塔婆であった。私は知人を通じて千葉県史編纂室に報告した。

昭和四十七年十二月から発掘魂査が行われ、千葉県下最大量の板碑が出土し、中世の信仰の姿を知る有力な資料として、現在もその研究が続けられている。

武蔵型板碑とは
図のような形の、長さ一メートル前後、幅二、三○センチ、厚さ三センチほど、青色または緑色の石碑で作られた、死者の供養塔、塔婆、墓石のことを歴史・民俗学で「武蔵型板碑」と呼んでいる。

武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の荒川上流部の秩父や野上近辺から産出する緑泥片岩を用い、武蔵国を中心に分布することから武蔵型板碑と呼ばれている。千葉県では主に荒川、利根川沿いの東葛飾地方と印旛沼周辺に濃く分布している。

板碑の型は概ね図のようなもので、頭部は三角形とし、身部との間に二条の切り込みで区切り、身部の上部に仏像や(数は少ない)や種子(仏像を表す梵字)を彫刻し、下部には紀年銘、戒名、建立の趣旨などが刻まれているが、その全てが揃っているものは稀である。経費の都合で一部を省略したものや、加工し易い石材を使用したため破損や剥落したためである。

私の手元にある少ない文献によれば、埼玉県江南町の阿弥陀三尊を彫刻した嘉禄三年(一二二七)を最古とし、多くは中世の鎌倉・南北朝・室町・戦国時代に造立された。下総地域では印西市の文化財指定されている浦部観音寺蔵の建治元年(一二七五)の弥陀一尊(種子)を最古とする。

印旛地方の武蔵型板碑については川戸彰氏(元千葉県史編纂室勤務)の先駆的な報告がある(昭和五十五年十一月)。

川戸氏の論文によると、千葉県下で最も濃密な分布を示すのは東葛飾地方であり、それに次ぐのが印旛地方であるが、武蔵、東葛飾地方から遠ざかるに従って漸減する。

紀年名により制作年代が判明するものを市町村別に数えると、本埜村七五基、印西市三七基、佐倉市三五基、白井市三二基、八千代市二九基など総計二三〇基に挙がる。

面積の少ない本埜村の数が多いのは前記の龍腹寺境内から八〇〇余基の出土があり、その内完形のものが一七一基、紀年銘が判読出来るものだけでも六六基に上がると言う千葉県下でも突出した出土があったためで、中世の龍腹寺が印西地方の仏教信仰の中心であったことを示している。

板碑の中心には仏を表す梵字(種子)が彫られている。これによって信仰の有り様を推定することが出来る。川戸氏の分析によると、先述の二三○基のうち、弥陀一尊が一四○基、弥陀三尊五○基である。ほかに釈迦如来が一基あるなど散見するが、主流は阿弥陀仏である。

下総の武蔵型板碑の特徴のひとつに種子の下に花瓶がほられていることがある。

鎌倉時代の後半六○年間に三七基、南北朝の六○年に八四基、室町前期一三○年間に三二基、応仁の乱(一四六七)以降の戦国時代の一〇〇年間に八七基の紀年銘を読み取るととができる。日本中がかってない動乱に巻き込まれた時代に武蔵型板碑は作られた。江戸時代前期のものが数基を数えるがやがて消滅する。多くは集団墓地や寺院跡に建てられていたが、独立した個人墓にも散見する。江戸時代には名主階級に成長していく農民層の墓地である。

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