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第四十五回 笠神の三義人

投稿日:2006年6月10日 更新日:

本埜村役場の東正面に小高い独立丘がある。中世千葉氏の家臣原豊前守が城を構えたという遺構が残り、今は天台宗南陽院の境内となっている。

本堂の前に顕彰碑が建てられている。表面には印旛郡長武藤宗彬の篆額による文字が彫られている。

裏にはこの碑が建てられた趣旨がおおよそ次のように書かれている。

江戸時代の正保・明暦のころ(一六四四~一六五七)、笠神村に三人の義侠者があった。

笠神村は平坦で肥えた土地柄で、下総台地を背にし、東北は葦や萩、水草の繁茂する『埜原(やわら)』と呼ばれる広大な原野と『印旛ガ浦』に面した豊かな農村であった。

笠神村と、隣り合う小林村は田畑の肥料とする草木を採集する埜原の帰属をめぐって、しばしばしば紛争を繰り返していた。正保二年(一六四五)四月には幕府の役人が検分し、両村の入会(いりあい・共同利用)とすべし、と裁定したが、両村の争論は収まることがなかった。

ここ笠神村に豪邁不羈をもって知られた三人の農民がいた。鈴木庄吉、岩井與五兵衛、岩井源右衛門である。

三人は笠神村の主張を弁論しようと小林村へ赴いたところ、竹槍などを持った農民に囲まれ捕らえられそうになった。三人は憤然として身を挺して格闘し、数人を殺傷した。

そののち三人は自首して自らの正当性を訴えた。彼らの主張は認められ、村下の埜原は笠神村に帰属することとなった。しかし三人は殺人を犯した罪により死罪とされた。

笠神村の農民は、己の身をすてて村の権威を守った三人の義挙を弔うために、処刑された村下の微高地に墓石を建てるとともに、毎年十月に十夜にわたって近隣の僧侶を集めて読経と説教の法会を催してきた。そのためか、明磨から明治に到る二三○余年の間、笠神村は水害・干害・蝗害・飢餓に襲われたことがない。

それもこれも三人の義侠者の勇気ある行動がもたらしたことである。

この事件の起こった正保から明暦の時代、利根川下流域は激動の時代であった。対岸の公津村に惣五郎事件が起き、惣五郎親子が処刑されたのは明暦元年と言われ、笠神村に事件が起きた前年であった。そして数年後の寛文二年(一六六二)には笠神埜原新田の開発が始まる。

印旛沼周辺の低地は湿地から陸地に変わりつつあったが、帰属が決まっていない土地を巡って、周辺の村々から耕作地として、あるいは採草地として注目をあびていた。

笠神の「三義人」はまさにこのような時代を背景に生まれたのである。

江戸時代、為政者の裁定に反逆して生まれた義民を、密かに追悼することはあっても顕彰することは叶わなかった。

板垣退助らが活躍する自由民権運動が高揚した、明治二十四年に笠神の義人顕彰碑は建立されたのであった。

(写真上)笠神・南陽院境内の顕彰碑
(写真下)押付・薬師堂前の墓石

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