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第四十四回 宗像神社

投稿日:2006年6月10日 更新日:

印旛沼周辺の集落に鎮守として祀られている神社の分布には興味深いものがある。

印旛沼東岸に麻賀多神社十八社、西岸北西部に鳥見神社十八社、南部に宗像神社十三社が各々まとまって鎮座していることである(神社数は独立した境内五〇〇坪以上の土地に社を建て集落または地域の鎮守として維持されている無格社、村社、郷社などで、氏神、屋敷神などは含まない)。

そのうち鳥見神社と麻賀多社は下総国以外には存在せず、全国におよそ九十社あると言われている宗像神社も印旛村と印西市、白井市の狭い範囲に十三社が固まって分祀されているような例は他になく、宗像大社の地元旧宗像郡内でも三社を数えるのみである。

宗像神社は航海の神・水の神

印西地方で宗像神社を鎮守として伝える集落は、印旛村岩戸・師戸・鎌苅・吉田・造谷・大廻(旧宗像村)、瀬戸・平賀・山田・吉高(旧瀬戸村)と印西市船尾・戸神(旧船穂村)、白井市清戸(旧白井村)である。

宗像神社の本社は福岡県宗像市田島(元は宗像郡玄海町田島)に在る辺津宮(へつぐう)を第一宮として田寸津比売命(タキツヒメノミコト・神名は「古事記」による)を祭り、その沖およそ十ニキロに浮かぶ大島に第二宮仲津宮があり、祭神は市杵島比売命(イチキシマヒメノミコト)である。さらに約四十キロ、九州と朝鮮半島を結ぶ玄界灘の孤島・沖ノ島に第三宮沖津宮があり、多紀理毘売命(タキリヒメノミコト)を祭神とし、この三宮を総称して宗像大社と言われている。

この三神は天照大神と素盞尊が「うけい(誓約)」を行ったときに生まれたという女神で、タキリヒメを長子とし、イチキシマヒメ、タキツヒメと続く。

これら三女神を祀った神社を何故に「宗像」と称するのか。諸説があるが、古代この地方は海上生活民の根拠地であり、その統率者である「胸形・胸肩」氏が勧請し、宗像大宮司となったことに由来するものと謂われている。

古代、この海は朝鮮半島から大陸に到る海路の門戸であった。沖ノ島の学術調査によって二十数箇所の祭祀遺跡と十二万点以上の祭祀遺物が発見された。これらは大和朝廷が国の安泰と海路の安全を祈って行われた祭祀に奉献したものと謂われ、三百六十点もの国宝が含まれている。

瀬戸内海の航海の神、海の守護神として三女神が六世紀に安芸の宮島に勧請され「厳島神社」の祭神となり、分社でありながら、平清盛や源頼朝などの深い崇敬と庇護があったために、今は本社宗像大社より広く知られ信者も多い。それには、三女神のひとりイチキシマヒメが神仏習合の思想によって、弁天様・弁財天に化身し、幸福・智慧・財福など現世利益の神として信仰を獲得し、全国に広まって行ったことも寄与している。

いま、印西の里山の谷頭の湧水他に弁天様の小祠が祀られていることが多い。稲作に欠かせない水の神でもある。

印西の宗像神社は印旛沼のほとりの台地にあり、大和王権の東北攻略の水路を確保するために配置された地方豪族の氏神として勧請され、稲作農民には水源を守る神として信仰されてきたのであろう。

印西に隣り合って分布する鳥見神社は、大和国鳥見山地方に君臨した豪族・物部氏の系譜を引く神社といわれるが、その鳥見山麓には古くから宗像神社が鎮座している。

「胸形・胸肩」氏と「物部」氏との接点は明らかにし得ないが、両者は相携えて印西地方の開発に当たっていたものと思われる。

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