ちばにう通信

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(第9回) 夏の音

投稿日:2016年9月20日 更新日:

台風の到来で、蒸し暑さが残るとはいうものの気温が少し下がってきた。灰色の雲と、輝きのない樹々の葉が盛夏の終わりを告げる。

七月のある朝、今年初めての蝉の啼き声を聞いた。その二日後には、辺り一面無数の蝉の声が響き、あたかも自分がその声の中に沈んでいるような錯覚にとらわれる。そしていつ止むともしれない声に囲まれながら夏に浸る。

ここ白井辺では、圧倒的に〝油蝉〟が多い。しかし〝蜩〟も比較的早い時期から啼きはじめ、しばらくすると〝みんみん蝉〟も声をあげ、夏の音は蝉一色となる。

蝉の声は私にとって思い入れの深い音である。大変世話になったK氏が闘病生活の後その甲斐なく亡くなられた時、私は蝉の声を聴きながら別れを惜しんだ。

そして又、私などを相手に、何度でも熱心に楽しそうに教育談義をして下さったK先生も、長寿をまっとうされて、暑さの盛りに旅立たれた。しばらしお会いしていなかったので、お訪ねしようと思っていた矢先のことであった。そのK先生との想い出を、やはり蝉の声の中で反芻して、しばらくは過ごしたのだった。

その数年後、私の夫は八月の末、蝉の声に見送られて、彼岸へと渡っていった。いつの頃からか、私にとって蝉の声は鎮魂の響きとなっている。

蝉の声そのものに感傷は無い。なぜ蝉が啼くのか、生物学的に意味があるかもしれないが、短い生をまっとうする為に唯々啼き続けているにちがいない。一週間ほど先の死を知ってか知らずか、とにかく啼き続けて、生殖を終わると腹を上に向けて、静かに死んでいく蝉に、生と死とは元来こういうものなのだと悟る。悟っても悟っても、蝉の啼き声を忘れた頃には自己の生と死を過剰に理解しようとしている自分に気付く。執着も煩悩もそう多くない方だと思っているけれど、子や孫への思いは死に臨んでも残っているだろう。

七、八月は何かと忙しかった。夏休みで孫達は、たびたび遊びに来るし、娘も実家での休息を欲していて、その要求に応えぬはずもなく、私はせっせと彼らのために体を動かした。だから蝉の声に浸るのは、それらの間隙を縫ったわずかな時間であったけれど、子供達が居る時はその世話を、帰って行けば一人静かに時間を我が物にする。双方愉しいことである。

夏の音と言えば、花火の音がある。白井に住んで二十五年間、白井まつりの花火はいつも家族と特等席の南の窓から眺めた。ちょうど良い距離から打ち上げる花火は、見ごたえもあり、体に響く音がよい。今年は初めて一人で眺めたが、夫が好きだったスターマインの美しさと腹に響く音を堪能できた。

さて、八月も終わる三十日の朝、今年は啼かないなあと思っていた〝つくつく法師〟の声が聞こえた。台風の影響ではっきりしない空模様の下、いつもと同じ二本の樹から聞こえてきた。啼き声が小さい。個体数も少ないのだろう。はたして来年に聞けるだろうかと思いながら、夏の終わりの蝉の声を聴いていたのだった。

(平成28年9月10日付)

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