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(第10回) 譲りあう心

投稿日:2016年10月20日 更新日:

久しぶりに薄陽が射した。天気予報では、今日の湿度は五十%と比較的低く、思いきって大物の洗濯をし、窓という窓を開けて部屋に風を入れる。

北の窓から南に抜ける風は、秋冷を感じさせて、心地よい。窓を開けると、数日前から時折聞こえていた運動会の練習の音が、少し音量を増して風とともに部屋に流れ込んでくる。応援の歓声、徒競走のピストルの音、マイクから聞こえる指導の声・・・・。

今日は本番までの日程が迫ってきたためか、一日を通して聞こえてくる。しかし数日前までは、ヨサコイの練習の音が聞こえたと思っても、すぐにその音は止み、今考えれば一時限分の授業の音ということなのだろうが、総じて運動会の練習は音を控え気味に行っているような気がした。学校としても、教育現場で出る音さえ騒音ととらえかねない昨今の風潮を配慮しているのかもしれない。

そしてふと、数ヶ月前の保育園問題を想い出した。保育園に子供を入れることができなかった母親がブログに「保育園落ちた日本死ね」と書き、話題となった。その母親は政府が総活躍時代と旗を揚げながらその実、就労のための環境整備は遅れていることに怒り罵倒したのだ。

世の論調は保育園を確保できないことに対して批判的であり、その母親の罵倒には、誰も触れようとしなかった。私はよく知らない女性であるし、細かい事情もわからないけれど、このなりふりかまわぬ罵倒には、嫌悪感を覚えた。彼女が正論と思っているならば、これとは異なった主張の仕方があったのではないか。もっとも、この方法だからこそ、世に簡易にアピールできたのかもしれない。

そしてまた時期が少しずれるが、別の場所では、保育園の建設に周辺住民が反対運動を起こした。理由の一つは、保育園の騒音が既存の住宅の静寂を損なうというものであった。保育園の建設という一つのテーマに関して、相反する主張がほぼ時を同じくしてなされたために恰好の対象としてニュースやワイドショー取り上げられた。どちらも各々が正当とする理由をもっている。しかし正当な理由だからといって、物事の解決に向けて同じ方向を指しているかというと、皮肉なことに反対のことが多い。

日本は法治国家だから争いごとは最終的には法で決める。しかし法は元来最大公約数的に作られたものであるから、総てを網羅できない。総てに対応しようと次々に新しい法をつくっても、伝家の宝刀の「人権」や「引きさがることを知らぬ自己の主張」がある限り、今後も争いごとの調整は難しくなるだろう。小学校で民主主義を習った時、譲りあいの精神が不可欠であると同時に学んだのではなかったか。そして譲りあうとは、まさに譲りたくはない大事な部分を譲るということだ。

日本は歴史的に和の文化が根づいている。ということは、譲りあって調整する智恵があったはずだ。ぎすぎすとした世相を避けるために、日本がまさに残していくべきものは、これらの智恵ではなかったか。

(平成28年10月8日付)

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