[14]まちの自律神経

中枢神経に頼りすぎて破綻した計画経済国家

 われわれの身体は、中枢神経と自律神経とでコントロールされている。

 中枢神経は、こんなふうに文章を書いたり、人と会話したり、芸術的な創作を行ったり、要するにわれわれが意識的に行う動 作を制御する神経である。一方、自律神経は呼吸をしたり、心臓が血管に血液を送り込んだり、ものを食べると胃袋が収縮し て食物を咀嚼したりといった、われわれの意識とは関係なく働いている神経である。

  もし、これら
すべての運動を中枢神経だけで制御しなければならないとしたら、大変である。何しろ、常に心臓の鼓動を止め ないよう、ほんの一瞬でも呼吸を忘れるわけにはいかない。ものを食べる時には、胃袋を収縮させて嚥下した食物を咀嚼する ことに神経を集中するから、味など楽しんでいられない。寝ても覚めても、こうした動作を意識し続けなくてはならないとし たら、とてものこと、文化的な活動や生活をより豊かにする工夫といったことにまで意識が回らないだろう。

 ソ連や東ヨーロッパで共産党ががっちりと国家を支配していた七〇年代、ある経済学者が社会主義体制下の計画経済を、ちょ うどわれわれの身体をすべて中枢神経だけで制御するシステムにたとえて、こんな体制は遠からず破綻するだろうと予測した 。

 資本主義経済では、モノの価格は市場の需要と供給(自律神経)によって決まるが、
計画経済ではすべてのモノの価格を官僚 的統制(中枢神経)によって決める。価格以外の経済要素、経済活動についても、官僚がすべて統制によってコントロールし ようとするのが、計画経済である。

 しかし、中枢神経(官僚的計画)だけで、現代の高度に発達した経済をすべてコントロールするのはしょせん無理であり、こ の予測から約二十年後にソ連も東欧も体制が崩壊した。

自律神経を圧殺するまちづくり

 さて、本題である。

 
ニュータウンのまちづくりというのは、どこかソ連・東欧型の計画経済システムに似ていないだろうか

 中枢神経ばかりが幅をきかせて、自律神経の出番は封じられている。

 ここで中枢神経というのは、まちづくりの大きな枠組みとか基盤的なインフラ整備といった活動を指し、自律神経とは、
まち がまちとして機能し、活気づき、にぎわい、発展していく、その街に住む住民や企業、商店などの営みをいう。

  ニュータウンの街路は整然としている。小気味いいほど直線の道路、そこを快適に走る車の列、住宅街は、きっちりと整備さ れた区画の中に家々が整然と建ち並んでいる。どこかの下町のように、木造のみすぼらしい駅舎、狭苦しい駅前通り、駅前の パチンコ屋、立ち食いソバ屋、そうした店から発する騒音や臭い、ごみごみした小便くさい路地といった風景とは無縁である 。

 見た目にはたしかに整然とした街並みだが、どこか冷たい、人間味とか生活臭のしない街並みである。

 それどころか、あまり整然とした街というのは、意外に不便で、使い勝手の悪い面があり、時にそこに住んだり、働く人々を 互いに隔離し、まちの中に一種の
ブラックボックスを生み出しかねない。

ビジネスモールは砂漠のような街

  ニュータウン中央駅北側には、「ビジネスモール」と呼ばれる、業務ビルばかりが集まった、一種異様な風景が広がっている 。

 美しい街路樹と緩やかなカーブを描く道路沿いのゆったりとしたスペースに高層ビルが建ち並ぶが、ここにはレストラン、 カフェ、コンビニといった、そこで働く人たちやこのまちの住民の利用を想定した利便施設は影も形も、臭いすらも感じられ ないのである。

 この地帯では、
「業務」に直接関係ない一切の人や車は「お呼びでない」らしい。たとえば昼時にホカホカ弁当を売る車がこ こにやってくることもない。だから、ここで働く人たちは、来る日も来る日も社員食堂の変わりばえしないメニューのほかに 選択肢がない。

アルカサールの誤算

 いちばん近くにあるレストラン街はアルカサールということになるが、
ビル街からここまで片道十数分かかるので、フォルク スのステーキ・ランチとスープバーを楽しみたかったら、午後の就業時間に遅刻して、ボスからにらまれるのを覚悟しなければならない。

 こうした事情は、アルカサールの各店にとっても、手痛い誤算だったようだ。目と鼻の先にあれだけのマーケットがありなが ら、昼間需要はまさに
絵に描いたモチとあって、夕方仕事を終えてビル街から駅に向かう人たちにターゲットを絞るほか ない。

 昼間は従業員を休ませ、夕方から営業する店が増えている。ふれあい横丁の居酒屋さんも、もともとランチをやる予定だったが、コスト倒れになるので、いまは夜だけの営業にしていると聞いた。

 ビジネスモール一帯を散策するにしても、歩き疲れたからちょっと休んでいこうかという店一軒、ベンチ一つないから、近所 の住民が、この木々が美しく紅葉した街路に足を踏み入れることもまれである。

 これは「にぎわい」や「ふれあい」といったこととは無縁のまち、
最初から地域との交流を拒絶したまちづくりをめざし たのだろうとでも想像するほかない。集積効果も、これでは期待できない。

 千葉ニュータウンの活性化には、このまちが患っている
先天性自律神経失調症を治療するのが先決?

月刊 千葉ニュータウン2002年12月14日付所載